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デリダの正義と脱構築
デリダにおける「正義」の概念は、彼の脱構築思想の後期的展開を理解するうえで中心的な位置を占めます。
デリダは「法」と「正義」を厳密に区別し、両者の間に不可避的な緊張関係を見いだします。法とは人間の歴史的・社会的文脈の中で制定され、一定の手続きや制度に基づいて運用される規範体系です。それは可変的で、決定可能で、常に暴力の要素を孕んでいます。いかなる法的制度も、それが定立される瞬間において、他の可能な規範秩序を排除し、特定の形式を権威的に固定するという行為を伴うからです。デリダはこの権力的な契機を「法の力」と呼び、法の正当性はその暴力性を完全に除去することができないと指摘します。
しかし同時に、デリダにとって法は単なる暴力ではありません。法は常に「正義」を志向します。だがその「正義」とは、決して法的秩序の内部で定義しうる理念ではありません。正義は法を超えた地点にあり、法を可能にし、また法の改訂や批判を動機づける根源的な原理です。デリダが「正義は脱構築不可能である」と述べるとき、その意味するところは、正義が固定的な理念として存在するということではなく、正義こそが脱構築の運動そのものを駆動する、終わりなき倫理的要請です。
脱構築とは、既存の制度や意味体系の不整合や排除を暴き、それらを問い直す実践ですが、その実践を支える根底的な動機は、まさにより正しいものへの無限の希求に他なりません。デリダにおいて正義は、脱構築が成立するための条件で、同時に脱構築が絶えず到達し得ない彼方として位置づけられています。
正義は決して制度的に完結することのない「到来」の形を取ります。それは未来からわれわれに呼びかける約束であり、いかなる確定的な法的判断にも還元されえない無限の責務です。デリダはここで、レヴィナスの倫理学における他者への無限の責任という思想を深く継承しています。正義とは他者への応答であり、それは他者を単に法的主体として扱うのではなく、常に法を越えて他者の特異性に応えようとする応答可能性の運動です。
超越論的正義
したがって、正義は「決定不可能性」を本質としています。正義の名において下されるあらゆる決断は、常に不十分であり、暴力を免れないものの、われわれは決断しなければなりません。この決定不可能であるにもかかわらず決断しなければならないという状況こそ、デリダにおける倫理の原点です。正義は決定不可能性そのものを生き抜く勇気、すなわち他者の要求に応答するために不断に自己を更新し続ける契機としてあります。
デリダにおける「正義」とは、いかなる形而上学的理念でも、単なる道徳的命令でもありません。それはむしろ、歴史的・制度的な法を絶えず批判的に越え出しつつ、それでもなお社会的現実の中で決断を引き受けるという、倫理的=政治的実践の原理です。正義は現実の法秩序を完全に置換するものではなく、むしろ法を持続的に脱構築へと駆り立てる原動力として働きます。その意味で、正義は到達されるべき目標ではなく、つねに「これから来るもの」として、われわれの行為の中で生起し続ける出来事です。
デリダの言葉を借りれば、それは「未来への開かれ」としての正義であり、既存の秩序に安住せず、他者への責務に応答する無限の運動です。デリダにとって正義とは、法の外部にある理念ではなく、法の内外を横断し、制度を絶えず批判的に更新させる脱構築の倫理的エネルギーそのものです。
それは決して規則化されず、名指されず、到達されることもないものほ、それでもなおわれわれに決断と責任を要求しつづけます。ゆえに正義は、デリダ哲学において、脱構築の根源的根拠であり、またその永遠の課題です。
デリダの方向性
デリダは無限の歓待(共同体の外部のものへの無条件の歓待)は理想だけど、現実的には困難だから、実際には条件付きの歓待をどのレベルで実現するかに重きを置くという、割と当たり障りのないことを言ったり、デリダは変なところで現実的、保守的だったりします。
「正義は脱構築不能」といったのも有名ですが、認知主義実在論ぽく見えるものの、結局認識論的基礎付けと真理論における極端な相対主義を設定するゆえに、非認知主義における極端な相対主義へ陥るのを回避するために、現象学、実存主義的スタンスから、不可知の正義を他者として設定して、それを否定せずに追求することを要請した感じで、道徳的真理や事実の存在論にあまりコミットしないけど、理論的には非認知主義、反実在論に親和的な感じです。道徳は、実在でも表出でもなく、他者性として現れ、認識を超えているが行為者に応答責任を課すものとして構造的に前提化されるのです。
真理論、意味論、認識論、形而上学全般に対して、表象の自己中心性と推論に頼る認知の覚束無さを前提にフーコーよりも極端な相対主義をとるのに、倫理においてはフーコーより保守的で、傾向としてはデリダに特異な非認知主義準実在論で、正義の存在を前提すべきという規範を設定する感じでこの辺りはまずフッサール、ハイデガーの実存主義、現象学がベースで、レヴィナスの感化が大きいです。
デリダにとって脱構築不能な超越論的なものは、正義の他に”贈与””赦し””来るべきもの”があります。これらは経験不能なので脱構築できません。倫理自体を超越論的次元に置くのは珍しい発想だけど、レヴィナスの影響です。
デリダの「正義」は、カント的物自体のような“外部”ではなく、むしろヘーゲル的本質のように“現象の内に潜在し、現象を貫く超越的契機”に近いけど、総合されず、永遠に開かれ続ける非全体的本質という感じなんで、ヘーゲルよりハイデガーとかの方に近いです。



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