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ミーム論の端緒
ミームはリチャード=ドーキンス『利己的な遺伝子』で初提唱されます。遺伝子のように「文化的情報も自己複製する単位がある」と仮定し、それをミーム(meme)と名づけたのでした。
遺伝子と同様に「変異・複製・淘汰」により文化も進化するという発想です。
ドーキンスのミーム論は、説明のためのメタファー的なものに過ぎませんでした。なので理論的な課題があります。
単位問題としては、何を一つのミームとみなすかが曖昧です。複製の精度については、遺伝子と比べて、文化的情報は模倣や伝達の過程で変容が大きいです。
デネットによる受容と文化進化論
その後、デネットは『ダーウィンの危険な思想』(1995)や『Freedom Evolves』(2003)で、ミームを単なる比喩でなく 心・文化・自由意志をダーウィン主義で説明する枠組みに組み込みます。「自己はミームが形成する物語的重心」「自由意志はミームによる自己編集能力の進化形」といった議論を展開していきます。デネットの議論により、ミームは単なるメタファー以上の位置を確立し、文化進化論にも影響していった、というのが学説史です。
文化進化論は1970年代末〜1980年代初頭に、キャヴァリ=スフォルツァ & フェルドマン(1976, 1981)、ボイド & リチャーソン(1985)が理論的枠組みを提示し、これはデネットの『ダーウィンの危険な思想』に先駆ける潮流です。
デネットのミーム論
デネットのミーム論を解説します。
まず自由意志は理由に応答して自分を調整できる能力で、因果から独立ではありません。ミームはその「理由」「概念装置」「自己モデル」を脳内に築く文化的コードとなります。ミームは乗っ取りを起こしうるものの、科学的思考や規範のようなメタミームは逆に自己修正力を高め、自由度を拡張しえます。
デネットにとって”心”は「ミームの温床」ではなく、ミームで作られていく情報処理体系です。言語・論理・数概念・制度理解などのミームが、私たちに理由づけ・長期計画・反省を可能にし、これが彼の言う実質的自由を生んでいます。
自由の度合いは“ミーム生態系”次第で、プロパガンダや依存を促すミームは理由応答性を鈍らせる。逆に、批判的思考、因果推論、誤り訂正、相手の視点取得といったメタミームは、自己点検と方針転換を可能にして自由を増やします。
デネットは自己を「物語の重心」と捉えます。これは虚飾ではなく、ミームによって構築された安定した自己記述で、将来計画や責任配分の機能を担います。ここが「自由=幻想」論との決定的差です。
責任は過去の“起源”よりも、介入可能性(学べるか・変えられるか)と理由応答性に紐づきます。したがって、ミームがその能力を拡張していれば、決定論的世界でも実質的責任は成立します。
デネットの源流、セラーズ
デネットは、心をミームと見ます。これは、セラーズに負うところが大きいです。
セラーズは『Empiricism and the Philosophy of Mind』で「与件 (the Given)」を批判しました。与件とは「経験にただ与えられている純粋なデータ」がそのまま認識や正当化の基盤になる、という経験論的発想のことです。セラーズによれば、知覚内容や表象はそもそも「主体の立場」や「言語的・概念的枠組み」に埋め込まれています。だから、裸の「与件」は存在しません。
これに内在する発想が表象の自己中心性です。
心の中の表象(概念・信念・物語)は、基本的に自分の視点や行動に結びついて構築されます。言い換えれば、表象は「自分が世界をどう理解し、どう行動するか」の中心で回り、これが表象の自己中心性です。表象の自己中心性とは、概念や信念が主体の視点に結びついて世界を描き出すという特徴で、つまり表象は「私にとってここ・今・こうである」といった形で構築され、そこから理解や行動が導かれるのです。
そしてデネットはこれを「物語的自己(narrative self)」として扱い、ミーム論とコミットさせます。
デネットのミーム論と、表象の自己中心性
ミームは 脳内に入った情報単位として複製・変異・淘汰されます。表象は 宿主(自己)の行動や判断に直結する形で複製され、ミームは自己中心的に「自分の脳内で最も効果的に複製される」ように振る舞います。そして心の表象は自己中心的(自分にとって意味がある順に構造化される)となります。
ミームは「頭の中で競争」し、自己に有利・効率的な表象は生き残りやすいです。また他者の視点や社会的価値は、自己に関連付けて表象されることが多く、これにより、表象は本質的に 自己中心的な構造になります。
自己中心性は「表象が自律的に振る舞う」ことの副産物ではなく、ミームの進化的圧力の反映とみなせます。逆に言えば、人間の自由意志や反省も、この自己中心的表象を制御、編集するメタミームによって可能になります。
こころはミーム?
”こころがミーム”というデネットの主張に引っかかる人もいるかも知れません。
デネットが「心はミームによって構成される」と言うとき、念頭に置いているのは 脳というハードウェアの上に走る「ソフトウェア的な層」 です。
脳がハードウェアとするなら、ミームはソフトウェア的要素にかかります。言語、物語、慣習、文化的パターンなど。これらが脳に「インストール」されて心を形成するのです。
デネットにとり「自己」=「物語的重心」は物理ミームが織りなす情報的構造であり、他のミームの解釈や制御の基盤になります。単なるアプリ(個別のミーム)ではなく、アプリを統御し、自己を更新していくオペレーティングシステム的役割 を持っているのです。
文化進化論
ミーム論の着想を受けて、より精緻な枠組みが「文化進化論」で発展していきます。
例えば 二重伝達理論はキャヴァリ=スフォルツァ & フェルドマン, ボイド & リチャーソンらが提唱し、人類は「遺伝子」と「文化」という二つの伝達システムをもつとします。文化もダーウィン的進化(変異・選択・継承)の枠組みで分析します。
文化的伝達には「垂直(親から子へ)」「水平(同世代間)」「斜め(親世代から子世代へ)」があると区別するのでした。
また文化系統学として、生物系統樹の手法を文化に適用します。言語の進化史や民話の類型進化などを系統樹モデルで解析するのです。
ニッチ構築理論があり、人間は文化的行為によって環境を変え、その環境が再び文化や遺伝子の進化に影響を与えるとします。ミーム論の「一方向的なコピー」よりも、環境との相互作用を重視します。
文化群淘汰は、個体レベルではなく、集団単位での文化的特徴が生存、繁栄を左右するとします。宗教や規範の持続が「集団適応度」を高める例です。
文化は集団適応のために規範を強化することがあり、個人にとっては不自由でも、集団全体に有利な文化は存続し(宗教的禁忌、伝統的役割分担)、これが文化による抑圧の起源です。
文化は水平伝達や斜め伝達によって新しい要素を取り込みやすく、それが多様な価値観や制度の出現を可能にします。これが文化による自由や発見の契機です。
また集団レベルでの文化淘汰により、制度や技術は「安定しつつ効率化」され、これが文化の洗練の起源です。



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