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相対主義的認識論、真理論批判
「データベース理論は、ネットにおけるsyamuの受容から支持されうる」といった主張を見かけたことがあるけど、一般にある理論モデルと整合的なパターンが一つ見つかったからといって、それだけでそのモデルが説明的だとは言えないやね。ボードリヤールやデリダが前提するような「表象の自己中心性」は、広く共有されており、「人間の認知が外部の記録や制度的推論に依存しなければ安定しえない」といった主張は受けいれられている。でもそこからさらに進んで、認知的真理論において極端な相対主義をとることは、経験的観察やモデルの説明力といった基準に照らして、説明的とは言いがたい。経験世界における諸モデルには説明的成功度に差異があり、それを無視することは現実記述の実践的意味を曖昧にする。
たとえばsyamuさんやその他のネットタレントについても、ネット上で流通する誇張された武勇伝と、取材や記録に基づく伝記的モデルとでは、説明性や観察との一致性において明確な差があり、それゆえ両者を峻別することは可能であり、また実際に行われている。歴史記述においても、大河ドラマのようなフィクションと史実との違いを、大衆が必ずしも厳密に理解していないとしても、学術的には説明性・反証可能性・一貫性・局所的ホーリズム的根拠などの指標を用いて、俗説と実証モデルは峻別されている。
モデル正当化の困難さ
また仮にデリダやボードリヤールのような認識論・真理論的相対主義を採用するのであれば、そもそもsyamuのような事例をもとに「モデルの正当化」を主張すること自体が困難では。相対主義の立場では、モデルの「正当化」という営為それ自体を相対化する。また仮に、そのような主張が「正当なモデルを探求しようとする態度自体を暴露する」ことを目的とした言説であったとしても、その暴露的態度そのものが認識論的に正当化可能であるかを問われたとき、答えを返せないから、単なる方法論的懐疑を超えて、内在的脆弱性、自己言及的脆弱性に陥る。
どれだけ記号の差延や表象の循環が重視されようとも、あるモデルが「現実においてどれほど説明的であり、観察と一致するか」といった基準を手放すと、「モデルを語る」こと自体が無効になる。



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